『私のオーストリア旅行』
第9話 " インスブルックへ "
たった二晩だったのに、フォアアールベルグ州ルステナウでのホームステイの経験は今も非常に鮮烈な印象として残っています。何にでも感動することの出来る若い時だったこと、外国の風物に目が慣れていなくて、全てが新鮮に映ったこともあるかもしれません。何度もテレビで映し出される見慣れたはずの外国の景色でも、自分がそこに居て、五感を通して感じられる物はまた別の物です。特に匂いは、その状況を瞬時に呼び覚まします。家に入ったときのあのスパイスの混じったセロリに似た匂い、モアーッとした心地よい暖かさは、決して忘れられない物となりました。
嫌いだったセロリを食べるようになり、その次ドイツに行ったときには、どこからあの心地よい暖かさが来るのか、分かるわけもないのに建築中の家をジロジロ見ました。その家は縦横複雑に煉瓦を積み重ねて壁をつくっていて、この厚さが断熱効果を良くしているんじゃないかなとひそかに思い、一度建築家に聞いてみたいと思っています。
その時インゲは14歳でした。私も彼女もそんなに英語が堪能ではないのですが、人間としてまだ半人前の14歳では、話の内容も稚拙にならざるを得ず、少し残念な思いもしました。
7年後、ドイツ語研修で渡独した折り、私はHugspiel 家に再びお世話になりました。この時二人だとばかり思っていた姉妹が実は4人姉妹で、外に出ていた美人のお姉さん二人にも会いました。21歳になったインゲはなんと"未婚の母"になっており、生後8ヶ月の息子フィリップのおむつをかいがいしく換えていました。
「まいった!!」と思いました。今度はいくらか上手になったドイツ語と英語で、ちょっとは、つっこんだ話もできると意気込んでいたのに、何も話せずに、しおれて帰ってきました。みんなと話すことが出来たのは嬉しかったのですが、進歩もなく、相も変わらぬ自分が全く恥ずかしくて、「上手になったね、半年もいれば、ちゃんとしゃべれてこちらで働けるよ。」と言ってもらっても、お世辞としか思えませんでした。その時のことは又別の機会に書くことにします。
ルステナウは刺繍の家内工業がありレースの生地の輸出産業があります。日本での話ですが、私はある時ロングドレスを作るレースの生地を捜していました。デパートで遠くから見えた生地に「オーストリア風だわ」と吸い寄せられるように近づくと、"Austria Lustenau"と書いた小さなタグがついているではありませんか。知己に出会ったようで、私がそれを買い求めた事は言うまでもありません。
その後、我が家にホームステイでドイツ人を受け入れたとき、信じられないことにインゲを知っているドイツ人が居たのです。彼女にオーストリアのインゲへのお土産を託し、それがちゃん届きました。人と人とのつながりを本当に不思議に思い、ご縁のある人とは又会うことが出来るのだと、このホームステイを機に強く思うようになりました。
オーストリアに行くまでは、国籍が違えば考え方も違うと、漠然と思っていたのですが、人間である以上、人を思いやる気持ち等、本質は全く変わらないことがわかり、嬉しいような、がっかりしたような気持ちになりました。今も人々の西欧ブランド志向は変わりませんが、舶来崇拝主義の日本が少し脱皮を始めた頃だったかもしれません。
私達一行は、初めての大きな行事を済ませ、私はたくさんの収穫を得て、チロル州の州都であり、1964年と1976年の2回も冬季オリンピックの開かれたインスブルックへ向けて、もはや懐かしいという気持ちが生まれたルステナウを後にしました。