『私のオーストリア旅行』
第19話 " 『旅行用六カ国語会話辞典』の威力 "
海外旅行に際して、言葉の問題は日本人にとって小さくはありません。その国の公用語が少しでも理解できれば、旅行の楽しさは、いやが上にも増すというもの。倍にも十倍にもなるでしょう。当時、私がかろうじて操れる外国語は、英語でした。それも中学校程度の簡単なものです。オーストリアは国語がドイツ語ですが「オーストリア、みんなで行くから怖くない。」と何の心配もしていませんでした。現地で言葉が必要なのは買い物の時ぐらいだと思って、私はあらかじめ京都で、何もしゃべらなくても買い物が可能かどうか、実験をしました。問題なくほしい物が手に入りました。
受け入れ側の団体のボランティアの人達は、みんな英語が達者で、買い物以外にも話をする機会はありましたが、そこそこ不自由なく過ごせました。オーストリアでちょっと教養のある人は、(特に日本に興味を持つような教養高い人は・・・?)英語などオチャノコサイサイにしゃべるらしいと思われました。英語とドイツ語は、よく似ていて、
例えばdrink<英> 〔ドリンク〕 は trinken<独> 〔トリンケン〕といった具合です。 英語を学習するにしても、日本人よりは、ドイツ人の方がはるかに有利で、容易なように思われます。 そのせいかどうか、教養の一つとして、外国語が不自由なく操れる日本人は、オーストリアほど多くないのではないでしょうか。
自信を持って(?)出かけた筈の私でしたが、ある日「旅行用六カ国語会話辞典」の威力を見せつけられた"事件"に遭遇しました。
さてその事件とは・・・・・
有名な観光地では、英語が通じますが、我々は、オーストリアの人でもあまり行かないような、小さな村も通ります。その日、数人ずつのグループに分かれて泊まったのは、そんな田舎の小さなペンションでした。特に問題もなく目覚めて、朝の食卓につくと、テーブルの上に見慣れないパンが乗っています。しっとりとして、たなごころにズッシリと重い、黒っぽい色の、今まで経験したことのない独特の酸っぱい味のするパンでした。土地の人が普通に食べているものらしいのです。
今なら、おいしく食べられますし、日本でも味わえるようになっていますが、当時は・・・・・、「どうしよう。食べられない。」と口々に言い出しました。「食事の時にいつも出てくるあの白パンを食べたい。」と誰もが思っていました。
ご存知の方も多いと思いますが、オーストリアやドイツでは、朝食は、パン、バター、ジャム、コーヒーもしくは紅茶が全て。うまく行けばチーズかソーセージの数枚がつく「コンチネンタルスタイル」です。
ですから、どうしても朝食にパンを食べておかないとガス欠になってしまうのです。困り果てた我々は、その夜、集まって「頼んでみよう」と言うことになりました。ところが、問題は言葉です。ここの女主人は、ドイツ語以外理解してくれません。
誰かが『旅行用六カ国語会話辞典』をトランクから取り出してきました。横長の小さな冊子です。「あの黒いパンは、食べられない。ほかの白いのにして下さい。」
を捜しました。出ていません。「我々日本人の口に合わない。」
もありません。仕方なく
黒い:schwarz〔シュバルツ〕 白い:weiss〔バイス〕 パン:Brot〔ブロート〕 私達は:Wir〔ヴィア〕 食べる:eseen〔エッセン〕 否:nicht〔ニヒト〕 等の単語をその中から探し出し、それを指さし、その下についたカタカナを読みながら、身振り手振りで訴えました。 小太りで背の高い女主人は、ニコリともせず、
「この日本人達は何を言っているの、ちょっと分からないわね。」
とでも言いたげな様子です。 "Ja." (=Yes.) とも "Nein." (=No.) とも言わずに去っていき、交渉の結果は翌朝まで持ち越されることに……。
そして次の朝 おそるおそる食堂に入っていくと、
「やりました!! 大成功です。」
パン籠の半分はあの白パンになっていました。 私達は全員そろってニコニコして、女主人に最大級のお礼のまなざしを送ったのでした。彼女は「ヨシ、ヨシ」といった風に、でもやはりニコリともせず、また台所に去っていきました。今から思えば、そのパンにBroetchenと言う名前が付いていることも知らず、白パンにしても幾種類もあるのに、よくあれで通じたものだと感心します。もしあの「旅行用六カ国語会話辞典」がなかったら・・・。熱意だけで、 はたしてあの垣根を越える事ができたでしょうか。
私はその黒パンを見てから、Broetchenは「ハイジの白パンに違いない。」と確信を持っていました。
ところが最近、近くのホテルでフランス料理を食べたとき、もっと小さくて、もっと白くて、もっとフワフワの可愛い白パンが出てきました。一瞬、アニメの『ハイジ』に出てきたパンを思い出したので、思わず「ハイジの白パンみたいね。」とつぶやくと、ボーイさんが当たり前さという顔で「そうです。ハイジの白パンです。」と、そういう名だというのです。きっとそんなパンは存在しているのでしょうが、私は、オーストリアでもドイツでも、スイスでも食べたことがありません。ハイジが押入に隠していた、白パンとは一体どのようなものだったのでしょうか。まだ疑問は解決していません。
我々のほしがった白いパンは直径10p位の小さな円形で、梅の花を思わせる放射状の5本の線が入り、外がカリッと仕上がったパンで、Broetchen〔ブロッシェン〕とかKaisersemmel〔カイザーゼンメル〕(皇帝の巻きパン)とか呼ばれています。Broetchenの語尾についた -chen は、小さなもの、可愛いものあるいは、軽蔑の意味を付け加えるときに用いられます。この場合Broetchenは"可愛いパンちゃん"のような感じです。
朝食には普通、これを2個食べます。赤道に沿ってナイフを入れ、半分に割り、バターとジャムをつけて、コーヒーを前に新聞を読みながら、無造作に食べている人々を、ホテルなどでもよく見かけます。
元々私は無類のパン好きですが、これが大変気に入ったので、パン屋さんでこの形のパンを見つけたら、必ず買うことにしています。でも残念ながらまだ日本で一度も、"あの味"、"あの舌触り"に出会えたことがありません。形はそのものなのですが、日本の風土では出来ない物なのでしょうか。
以前、NHKの「ドイツ語講座」のテキストに、それらしきパンの作り方が出ていたので、やってみようかと思いましたが、ずぶの素人の私が挑戦するのは僭越すぎると、止めにしました。
今もこのパンに対する熱い思いが失せることはなく、いつか出会える日を夢見て、行く先々のパン屋さんの店先でBroetchenをウロウロ捜し続けている私です。