『私のオーストリア旅行』
第17話 " グロスグロックナー を越えて "
フォアアールベルグ州からアールベルグを越えてチロル州へ来たときのように、今度はオーストリアの最高峰グロスグロックナーを越えて、ケルンテン州へ入ります。
風光明媚では、俗っぽ過ぎます。この景色の美しさをどのように言えば表現できるのか、貧困な私の語彙力を疎ましく思います。
山の澄んだ空気で、さえ渡る鮮やかな色あいの山や空や牧場や家々、もしや空気さえ輝いているのでは、と思うほど混じりけのない色彩の世界です。京都の北山がぼんやり朝霧にかすむ日本画の世界とは全く異質です。
グロスグロックナーGrossglockner への登山道路にかかりました。普通のドライブウェイですが、次第に森はなくなり、急な坂には、張り付くように短い草が生え、それをはむ山羊や羊でしょうか、動物が豆粒のように小さく見えています。やがて緑の大地は残雪に覆われ始め、雪は氷となり、見える色が減っていくと同時に、空気さえ薄くなってくるような、無彩色の世界へと変わってきました。山々は万年雪に覆われて、ブルーグレーの山肌を見せながら、銀色に輝いています。一本、細く長く走るこの道は元々、ローマ時代からあったものだそうで、この道もローマに続いていたわけですね。道の両側の雪はどんどん増え、そそり立つ氷壁の間をしばらく走った後、視界が開け、シルバーグレーに不気味に光る『氷河』が見え始めました。
私の中では、『氷河』と『氷山』との区別はかなり曖昧で、想像できるのは、タイタニック号がぶつかった"氷の塊"でした。確かに辺りの山も谷も地形の凸凹なりに、まんべんなく厚い氷に覆われていますから、"氷の塊"ではあるのです。でも凹、即ち谷の部分には細かい筋が幾本も見え、上から下へ何キロも続く、それはやっぱり"河"なのです。例えば山の上から麓へと揚子江が氷となって横たわっているとでも言えばいいでしょうか。(私は揚子江を実際には見たことがないのでちょっと大げさかも)
私はスキーが好きですが、氷の上を滑るのは苦手です。おそらく細く見える筋も近寄れば、相当な深さと鋭さとで、その上を滑る無謀な人はいないでしょうが、その上を歩いては見たいなと思いました。きっとそれも、オーストリア政府観光局なんかが許すはずはないでしょうが。
『氷河』はドイツ語では "Gletscher" で、氷 "Eis" とも 河 "Fluss" とも関連がなさそうです。氷の間を縫って、大量の水が、勢い良く流れ落ちていましたが、これをドイツ語で "Gletschermilch" 「氷河の乳」とはうまい表現ですね。
2,370mの展望台フランツ・ヨーゼフ・ヘーエまで、夏は車で行けますから、みんな軽装です。雨のような霧のようなお天気で、寒くてさすがに長くは外にいられませんでした。スイスにしてもそうですが、オーストリアもこんな3,797mもの山を観光資源にしてしまいます。
ただ感心するのは、開発の跡が、外から見て、それと全く見えないようにしていることです。岩の影から突然ケーブルカーの乗り場が出てきたり、小さな例では、古い宮殿を会議場に再利用している場合、シャンデリアはそのままで勿論電灯がつくようになっているのですが、配線が見えないのです。古い物と新しい物の共存のさせ方が、絶妙でした。おじいさんと孫とはどうか、そこまでは分かりませんでしたが・・・・・。もちろん、グロスグロックナーも、脇腹にドライブウェイの無惨な切り傷が麓の村から見えるようなことはなく、その偉容を余すことなく現しています。
山を下りてバスの後ろに山が遠ざかるほど、その白く輝く姿はより一層美しくなり、明るい夏の太陽が降り注ぐ平和な村の背景としてしっかり、溶け込みます。先ほどのあの不気味な雰囲気は全く消失して、今や全てが穏やかな世界です。絵のような、絵に描きたい、夢のような、ああどのように言えばいいのでしょう。素晴らしい風景です。どんなに上手な写真家も表現不可能な、そこに行って初めて分かる感動を、私はこの時から知るようになりました。
山間の村、ハイリゲンブルート(「聖なる血」の意)は、キリストの血が納められているフィンツェンツ教会が中心にある、大変美しい村です。グロスグロックナーに負けじと、教会の尖塔がそびえ、こぢんまりした中心部は、隣のザルツブルグ州からの観光客にも人気です。
---------ハイリゲンブルートの写真はケルンテン州のページにあります。私達も、バスから降りて少し手足を伸ばして、散策しました。夏休みに田舎のおばあちゃんのところに行ったような、何百年も昔のままの暮らしが続いているような、懐かしい安堵感が、私達現代人を包み込むようでした。
バスの長旅の後の宿泊地は、ケルンテン州の州都クラーゲンフルトです。