『私のオーストリア旅行』

 

第26話            "  オーストリア風のパーティって?  "  

  手作りシャンデリア

見上げると、空はもうすっかり暗くなり、にわかに取り付けられた電線に頼りなくぶら下がっている、いくつかの裸電球も、結構頼もしくあたりを照らし出しています。屋内の天井や、壁にたくさんついている、小さなシャンデリアにもかわいい緑色の光がともりました。シャンデリアといっても手作り、どこにでも落ちていそうな茶色の小枝に、葉っぱの代わりに緑色の電球をくっつけてあるだけです。


耳には、聞き覚えのある音楽が次々に聞こえてきます。オーストリアの人達は知ってる歌なら歌い、誰かが歌いだすと、すぐに数人がハーモニーを作ります。これは旅行の間、何度も経験しました。ハーモニーは、人の音を聞き、それに自分の音を重ねて行く。自分を維持しながら、他に流されず、他を認め、別々でありながらひとつの音楽を作る。一人より二人、二人より三人で、より深みのある音楽になっていくと、聞いたことがあります。日本人はハモれません。なぜなんでしょう。もちろん音階の違いはあるでしょうが、日本は島国で単一民族国家、ヨーロッパは隣国が陸続きだから、なんて考えは、大げさすぎるかしら。

ワルツやポルカが流れ出すと気軽に踊りだします。この庭の広いスペースはダンスのためでした。恥ずかしがって、ズリズリと後ろに下がっていくのは日本人。
ウィーンで本場のウィンナーワルツの生演奏でワルツが踊れるなんて予定外ですから、代々木のオリンピックセンターでの合宿では「ワルツの練習」の時間はとってありませんでした。ウィンナーワルツ
オーストリア美人を前にして、男の子達は残念そうな苦笑いを浮かべて座を立たず、ダンスを楽しんだ人は、わずかなダンスの心得か勇気のある人だけです。
私はオーストリア人のすばらしいリードとワインに力を得て、華麗な?ステップを披露しました。この時ほど、ワルツのステップを練習しておいて良かったと思ったことはありません。


この夜のパーティでご愛嬌だったのは、演奏が必ずしも正確に音符どおりでなかったことです。音楽の国なのにと、皆さんもお思いでしょうが、それが、彼等の練習不足のせいだったのか、テーブルの上に何本も並べられたワインの空き瓶のせいだったのか、定かではありません。でも考えてみれば、素人で、しかも突然の呼び出しに、これだけやってくれるのですから、"スゴイ!!"という他はないでしょう。

 

日本で不意に、こんなにたくさんのお客様が訪れたら・・・・・。 考えただけで日本の主婦ならぞっとすると思うのですが、それはみんな"大ご馳走"することが最大のもてなしだという"日本人の常識"にとらわれているからで、以前(第5話 期待の歓迎晩餐会)にも述べましたように、オーストリア流のご馳走はいたって簡単。その日も、シャンデリアとテーブルでにわか会場になったガレージ風の土間では、可愛い紙ナプキンの上にクッキーとチーズが数種類のった、人数の割には小さな、あるいは小さすぎるお皿が各テーブルに並べられていたに過ぎません。もちろん大ご馳走を拒むものではないのですが・・・・。ご馳走作りに追われることなく奥さんも子供も民族衣装を着て、一緒に楽しんでいます。

しかしここはワインナリーの持ち主の家。そう、ご想像通り。
ワインは飲み放題!!
制限時間なんてありませんよオー。

無くなれば遠慮なく隣の近代的な工場からカートンで持ってこられます。そのころ日本でワインと言えば、赤の甘ったるいポートワインをさす事が多く、またワインは渋いものという印象もありましたから、このようにさっぱりして口当たりがいい白ワインは初めての味わいでした。このような時に通常飲まれるワインはテーブルワインで、あまり高級品ではありません。きっと、その時もそうだったでしょうが、当時、日本で買えば結構高価だったはず。外国のワインは手に入りにくい時代でした。アルコールは弱い私も、その場の飾らない雰囲気に、知らぬ間に何杯ものワインを飲み干していました。


今の日本人と違い、その頃は若い人でも案外シャイで目立つことが苦手。今一盛り上がりにかける我々をくつろがせ、どんどん誘い込む、ゲームも用意されています。お箸を使って、外人にご飯を食べさせるゲームは、完全に日本人の方が有利なのに、時間制限と大量のご飯では、お互い口の周りは、ご飯つぶだらけで、なかなかいい勝負です。手を使わずにケーキを食べるゲームにはこの家の主の州知事さん自ら参加。これも顔中白いクリームだらでです。

何が何でも楽しむぞという心意気は、明らかに相手が勝っています。

そして「我々だって、何かやりたい。」と言う気にさせられます。それを助けてくれたのは、花火。この日、この家でホームステイが許された幸運な5人がいましたが、そのうちの一人のトランクに、花火が入っていたのです。

東京での合宿の際に、我々はグループの行動がスムーズに運ぶように、それぞれ役割分担を決めていました。私は、準備段階では花火の買い付け、旅行中は会計が当たっていました。火薬ですから、もしもの事を思い3人が分けてトランクに持つ事にしたのです。思わぬことにこれが功を奏して、大阪のおもちゃの町『松屋町筋』まで行って買い付けた色々な珍しい、大量の花火は、その夜のパーティを大いに盛り上げてくれました。

「テープ持ってるかもしれない。あったら、踊ろう。」と、一人が荷ソーラン節か、炭鉱節かどっちかな?物を探すと、ありました。私達のレパートリーのひとつ、民謡のテープです。ワインや香草の香りが漂う屋内に、大音響で懐かしい炭鉱節が、いささか場違いな雰囲気で、響き始めました。
ある男の子は
「オーストリアの音楽はええなぁ。日本の音楽、はずかしいなぁ。ほかに日本にも、ええ音楽ないんかなぁ。」
と言いながらも、日本人もオーストリア人も混ざり合って、盛大にソーラン節と炭鉱節を広い庭いっぱいになって輪を描いて踊ったのです。私は、彼等はあんなにワルツがうまいのに、何で日本民謡の踊りはへたくそなんだと思いながら。

一緒に歌い、踊り、楽しんだこの宴がお開きになったとき、時計は0時を回っていました。私は、非公式のオーストリア風のパーティの、なごやかな余韻をここに残していくのが惜しくて、自分の思い出のトランクに、少しだけそっとしまい込み、立ち去りがたい思いを抱きつつ、この家をあとにしました。

 

つづく

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01/08/30