■ハプスブルグ家 東へ / ルドルフ一世
ハプスブルグ家の始祖。ドナウ川の南、ザルツブルグからインスブルック辺りに岩塩の地層があり、其の塩によって興ったのがハルシュタット文明(BC1000〜BC500)である。この文明の担い手、ケルト人はローマ人によって駆逐され、その後、カール大帝、神聖ローマ帝国の初代皇帝オットー一世と支配者は変わる。彼のバーベンゲルグ家は976年、ウィーンに本拠地を置き、金銀、塩で勢力をつける。1246年跡継ぎが絶え、スイス北部バーゼル近郊ハビヒツグルグ(大鷹の城)の小さな領主であった、貴族のルドルフ一世が1273年神聖ローマ帝国の皇帝に推挙される。ボヘミア王オカタル二世との戦いに勝利してここに、以後640年に渡るハプスブルグ家即ちオーストリアの歴史が始まる。
■ブルグント文化移入 / マクシミリアン一世
ウィーンに居を構えたハプスブルグ家は、ドイツ諸侯から容易に神聖ローマ帝国の帝冠を許されなかったが、1452年マクシミリアン一世の父、フリードリッヒ三世が戴冠を許されて以来位をほぼ独占することになる。彼は幸福な結婚をつかむ特別の才能でハプスブルグ家に貢献。オーストリアとブルグント公国共通の敵フランスとスイスに対抗するためマリアと息子との政略結婚を画策。ブリュッセルを首都とし、毛織物業で繁栄し、北方ルネッサンスが花開いていた、ヨーロッパで最も豊かな地方ブルグントを手に入れ、文化の面で後れをとっていたオーストリアも一気にトップに躍り出る。フランスからの脅威に対するため、ウィーンより西のインスブルックに1493年遷都。結婚政策によって領土を拡張しながらハプスブルグ家は世界帝国への道を歩み始める。
■世界帝国へ / カール五世
マクシミリアン一世は子供二人とスペイン王家との婚姻政策を進めるが、息子フィリップの1506年死去、娘婿のスペイン王子結婚後半年の病没により、孫のカールが王位継承者となる。彼はスペイン王カルロス一世としてまた神聖ローマ帝国カール五世として、ヨーロッパの大帝国の覇者となる。カールの弟のフェルディナント一世は、ボヘミア・ハンガリー王国の王女と結婚。王位継承者の戦死で、ボヘミア・ハンガリーを相続。
無敵のカール五世を脅かしたのは、宗教改革の嵐である。1555年、アウグスブルグの宗教会議で、ついに信仰の自由を認めざるを得なくなり、退位。この時、オーストリア、ボヘミア、ハンガリーをフェルディナント一世に、ペイン、ポルトガル、シチリア、ナポリ、北イタリア、ブルゲントを息子のフェリーぺ二世に継承し、ハプスブルグ家は二分する。
■三十年戦争とウィーン包囲 / レオポルト一世
兄の急逝のため、聖職者から還俗、1658年即位〜1705年まで。17世紀のハプスブルグ家はプラハにおける事件から『三十年戦争』に突入する。宗教戦争の形を取る最初の国際紛争と言われている。フランス優位に終結し、神聖ローマ帝国の権威は落ちる。こんな時に、ハンガリーの事実上の支配者オスマントルコが、ウィーンを包囲、1683年。オペラを作曲するような芸術の才能あふれる王は、4000人の兵士を残してドイツ国境の町パッサウに逃げ出した。二ヶ月の包囲後ポーランド王の奇襲で辛くもウィーンは救われる。政治力が不足した不人気のレオポルト一世だが、フランス人オイゲン公を登用して、名誉回復する。
余談だが、ウィーンにコーヒーをもたらしたのはこの時のオスマントルコであると言われている。
■バロック文化開花 / オイゲン公
小柄で風采の上がらないフランス人貴族オイゲン公はブルボン家に冷遇され、オーストリアに仕官する。1697年ゼンタの戦いの大勝利でトルコ軍を完全にハンガリーから追いし、ドナウ帝国の基礎を築いたハプスブルグ家は列強の仲間入りを果たす。1701年のスペイン継承戦争でも活躍するが継承者がいなかったのでブルボン家に乗っ取られる。スペインハプスブルグ家消滅。忘れてならないのは、この人の美的、文化的感性のすばらしさである。国立図書館の蔵書で最も重要な15、000冊を含む彼の蔵書は90,000冊と言われている。この時代ウィーンに華麗なバロックが花開き、シェーンブルン宮殿、ベルベデーレ宮殿、メルク修道院をはじめ見事な建築が次々と完成していく。中でも建築家、フィッシャー・ホン・エアラッハは惜しげもなくその才能を発揮。オーストリア各地にたくさんの建物が残っている。絵画ではミヒャエル・ロットマイヤー、彫刻ではラファエル・ドナー。イタリアに独占されていた音楽の分野でも、新築間もない宮殿でバロック音楽が盛んに演奏され、モーツァルトの生まれる土壌が出来ていくのである。
■啓蒙の時代 / マリア・テレジア
父のカール六世は、スペイン継承戦争の苦い経験から、1713年女性でも王位継承権を認める様に「国事詔書」を発布。1741年、オーストリア継承戦争が勃発。4人目の子供を懐妊中のマリア・テレジアは「金も、信用も、軍隊も、経験も、知識もない状態」でハプスブルグ家を継承する。7年後、シェレジェン地方(現ポーランド西部)をプロイセンに明け渡す。反プロイセン網を張るべくフランスのブルボン家と和解。娘のマリー・アントワネットが政略の道具となる。夫のフランツ一世を深く愛し、16人の子供をもうけた。市民的で飾らない家庭生活を維持。1765年フランツを亡くしてから自身の生涯が終わる80年まで、喪服で通したことが知られている。治世の終わりには、近代国家に脱皮するべく国家機構の改革、社会改革に取り組んだ。
■ウィーン会議 / ナポレオン
1804年、マリア・テレジアの跡を継いで皇帝を継承した息子のヨーゼフ二世は、農奴解放、拷問禁止、宗教にも寛容、と改革を積極的に押し進めるが、1789年のフランス革命の余波は、大きなうねりを持ってオーストリアに押し寄せ、それも小さな物に思わせる程だった。反フランスの同盟を結んだロシア、プロイセン、イギリスもナポレオンの勢いに抗しきれなかった。ハプスブルグ家以外のドイツ諸侯がナポレオンとライン同盟を結成したことで、最後の神聖ローマ帝国の皇帝となったフランツ二世は、「双頭の鷲」の紋章のみを継承するオーストリア皇帝フランツ一世となった。発言権を増すため長女マリー・ルイーズとナポレオンの婚姻を結ぶ。ロシア攻略に失敗したナポレオンは、同盟軍に敗北。秩序回復のため、1814年『ウィーン会議』が開かれる。200に及ぶ国、都市の代表が集まったが、「会議は踊るされど進まず」と華やかな舞踏会が続いた。これが収束に向かったのは、ナポレオンがエルベ島から脱出したというニュースが伝わったからで、宰相メッテルニヒの努力で、オーストリアは、以前にも増して領土を拡大した。大国間の力の均衡がとれ、徹底的な統制と検閲、抑圧があったが、その後30年間ヨーロッパにはつかの間の平和が訪れたのである。
■オーストリア・ハンガリー帝国/世紀末ウィーン / フランツ・ヨーゼフ一世
1848年即位、1916年死去。実質的にハプスブルグ家の最後の皇帝となった彼は、「何もかも我が身に降りかかる」というのが口癖だった。確かに悲運の皇帝である。「シシィ」の愛称で知られるドイツバイエルン王家のエリザベートと恋に落ち、結婚。儀式張った宮廷生活を嫌う彼女は旅に明け暮れ1898年、スイスレマン湖の畔でイタリアの無政府主義者に暗殺される。弟マクシミリアンは、メキシコに新ハプスブルグ家を夢見て渡るが1867年戦死。『神経症』でなやむ息子のルドルフは恋人とピストル心中、1889年。甥のフランツ・フェルディナントを後継者にするが、1914年サラエボで暗殺され、この事件をきっかけに世界は第一次世界大戦に突入するのである。
1867年オーストリア・ハンガリー帝国発足後、立憲君主制の導入、普通選挙法、労働者の保護法等社会改革を押し進める。ウィーンの街を取り巻いていた、リンク(城壁)を取り除き、周遊道路とし、建築群の出現など活気を帯びた、しばしの平安を享受。小市民的ではあるが、自由な空気の中で、「ユーゲントシュティール」(フランスでは「アールヌーヴォー」)と呼ばれる芸術が出現。クリムト、マーラー、医学ではジクムント・フロイトなど多数の才能が花開く。
■第一次世界大戦と帝国崩壊 / カール一世
フランツ・ヨーゼフ一世の死去にともない、即位するが、世界の情勢はもうハプスブルグ家オーストリア帝国の存在を許さず、平和へ努力も空回りして、民族の独立が次々と連鎖的に起こり、1918年11月退位。翌日オーストリア共和国が樹立。640年に及ぶ帝国は崩壊。
■第二次世界大戦と戦後 / ヒトラー
第一次世界大戦は、帝国の抱える民族問題を解決することなく終結した。1938年ヒトラーはドイツとつかず離れずの関係にあったオースとリアに侵攻し、オーストリア併合を既成事実とする。第二次大戦中対ドイツのレジスタンスはあっても、ナチスの崩壊を待つしかなかった。東西分裂を避けられたのは、占領下に与えられた大幅な自治権で、結局東西の緩衝地帯としての道を選ぶことになるのである。1955年永世中立国家として独立を回復する。1970年代にはウィーンに国際機関がいくつか建設され、国連都市として、平和の維持のために積極的な貢献を果たしている。 |