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 ■ Tirol チロル州
Wien  Vorarlberg Tirol Kaernten Steiermark Burgenland Niederoesterreich Oberoesterreich Salzburg
チロルの正装をした人形 まるで、絵のように美しいそれがチロルです。青い空に突き刺さるような雪と氷の山々。牧草地でカウベルをならしながら草をはむ、うす茶色の牛達。大きな三角破風の木組みの家々。どの窓にも花が飾られています。何もかもが昔のまま。澄んだヨーデルも、シュー・プラットラのリズムに乗ったチロリアンダンス。平和な村のブラスバンド。冬は2000m、3000mの山頂から、雄大な景色を楽しみながら滑降が楽しめます。渓谷と言う意味のタールがいくつもありそれぞれが固有の文化を育んでいますが、ツィラータアールやエッツタールは良く知られています。オーバーグルグル1927mでは夏も氷河が見られます。地図では、ドイツとイタリアにはさまれた、黄色の部分です。
南チロル

チロルは西と東に飛び地になっていますが、現在イタリア領となっている、南の地域も実はチロルでした。第一次世界大戦で「イタリアに持っていかれた」とは言っても、今もドイツ語が通用し、土地の名前もイタリア語とドイツ語両国語で呼ばれています。

人々は、オーストリアとかイタリアとかではなく、チロルの民という認識で、南チロルの催しのチラシがインスブルックで見られたりするそうです。その事を忘れまいと駅前の広場は"南チロル広場"などと名づけられています。

1991年にチロルの氷河の下から石器時代人の「オッツィー」が発見されたときも、国境の1〜2m内側だったので、イタリアの主張を退けてオーストリア人になったらしいのですが、彼は「私はチロル人だ」と言いたかったかもしれませんね。

南チロルは、ドロミテと呼ばれる大変美しい地域を有しています。なだらかな平野から突然切り立って聳え立つアルプスの景観は本当にすばらしい。

現在のイタリア領、南チロル・Meran〔メラン〕は、マクシミリアンがインスブルックに都を移すまで、チロルの都でした。今もチロル城が存在します。

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Andreas Hoferアンドレアス・ホーファー
1809年、ナポレオンとの戦いで激しく抵抗し指揮を執りチロルを守った南チロル出身の英雄。さらに侵入してきた、バイエルン軍にも敢然と戦い、ハプスブルグ家への忠誠を世界に知らしめた。翌年イタリア戦で捕らえられ銃殺された。チロルではマクシミリアン一世と並ぶ有名人である。立派な銅像の傍らにある記念館では、ぐるりと我々を取りまいた壁上部に、激しい戦いの模様が克明に描かれている。

 

Innsbruckインスブルック

ローマ時代既に、ウェルディデナと言う町として知られていた。インスブルックの南にある、現在のヴェルトンにその名を残している。1493年マクシミリアン一世が都を移して急速に発展。18世紀のはじめ一時バイエルンに侵入されるが、マリア・テレジアの時代再び繁栄。1867年、ブレンナー峠を経てイタリアとミュンヘンをつなぐ鉄道が完成。中継地点として知られるようになる。
私は、インスブルックには、2回半訪れています。"半"というのは近年、イタリアからミュンヘンに向かうオリエントエクスプレスで駅に降り立ったことです。ブレンナー峠では本当に寒くて停車時間に駅にも降りられなかったけど、インスブルックでは駅の前まで出てみました。ノルトケッテの銀色の連峰が、くっきりと青い空を切り取り、辺りの空気にまでその鮮烈さが及んでいるようで、胸一杯に、澄み切った空気を吸って再び列車に戻りました。

i インフォメーションInnsbruck Tourrisumus:駅前のインフォメーションでホテルの案内をしてもらえる。ここが混んでいれば、マリアテレジア大通りが急に狭くなり、ヘルルォーク・フリードリッヒ通りと名を変えたあたり、旧市街の入り口にもある。

チロル州観光局:www.tirol-info.jp
e-mail : info@innsbruck.tvb.co.at
URL : http://www.tiscover.com/innsbruck/
 
観光スポット

□ 凱旋門

インスブルック中央駅からまっすぐSalurner通りを約300mの所にある。1765年、マリア・テレジアが、息子とスペイン王女との結婚を祝って建てたが、夫のフランツ一世が同じ頃死去。彫刻は南面は「生と幸福」、北面は「死と悲しみ」を現している。

□ マリア・テレジア通り

「凱旋門」を北(右)に曲がるとそこがインスブルックの目抜き通りで、黄金の小屋根のある、観光コア部分まで約500m続くマリアテレジアMaria Theresia 通り( 写真は『私のオーストリア旅行』第9話)である。様々なお店のウィンドウショッピングを楽しみながら歩いていると、不意に木彫りの重い扉が見つかる。おそるおそる扉を開けて入ると、そこは教会。外の喧噪とは無縁の信じられないような静寂と、美しいフレスコ画に彩られた天井、壁面が展開して驚く。

□ ラントハウス

通りの中程、右手にある1728年建造のバロック建築。集会議場が置かれていた。コスマス・ダミアン・アザムの天井画が素晴らしい。

□ アンナの記念碑

道の中央のやがて見えてくる高い台座のついた像は、1706年スペイン継承戦争の際に侵入したバイエルン軍を駆逐した記念碑である。ヨーロッパによくあるこのような記念碑は高すぎて、下からでは上の像はよく見えない。なぜこんなに高いのか、いつもいぶかしく思っている。

 

□ 黄金の小屋根

マリアテレジアMaria Theresia 通りの突き当たりに燦然と輝くのが、「黄金の小屋根」Goldenen Dachlである。1500年マクシミリアン一世によって造られた。金箔を施した、2657枚の銅板が瓦の代わりに葺かれている。腰の浮き彫りは、結婚5年後、落馬事故で死亡した、ブルグント家のマリアと、二番目の妻であるイタリア、スフォルツァ家のビアンカ・マリア。ここは今、マクシミリアン博物館となっている。

この前の広場では、冬には大きなクリスマスツリーが5月にはマイバウムMaibaum(=メイポール)が建てられる。

 

□ ヘルプリングハウス

「黄金の小屋根」に向かって左手には、ロココのスタッコ(化粧漆喰)装飾過多とも思えるこの建物が時代色を遺憾なく発揮している。この建物に沿って左に曲がると、すぐにイン川に至る。水量の多さ、流れの勢いに圧倒される。この周辺には、14世紀の建物「オットーブルグ」を利用したワインケラー、レストラン、そこで行われたこと、利用した人など、長い歴史を持つ街が常に持つ、"由緒"が至るところにある。
たとえば、「ホテル金の鷲」Goldener Adler の泊り客には、ゲーテやハイネの名が見える。

なお、まだ無名だった若き日のモーツアルト父子は、もう少し格式の低い「バイセスクロイツ」(レオポルド通り)に宿泊している。

 

□ 市の塔

「ヘルプリングハウス」に向かい合う「市の塔」に登ると街の眺望が楽しめる。


□ 王 宮


マリア・テレジアの玉座
「黄金の小屋根」に向かい右に道をとり、細い路地を抜けると、王宮に着く。
15世紀に建築が始まり、16世紀マクシミリアン一世により、拡張。1754年、再び改修工事が始まったのは、マリア・テレジアの息子レオポルドとスペイン王女ルドヴィカの婚礼(1765年)の為で、ロココ様式の傑作として完成した。

宮殿だからどの部屋も、それは素晴らしい事は言うまでもない。すべて、たくさんの肖像画やフレスコ画、重々しいシャンデリアで満たされている。白っぽいバックに金色の縁飾りが、どこにも抜けているところがない様に細心の注意を払って飾り尽くされている。東洋人から見る、「東洋の間」とか「中国の間」と呼ばれる部屋は、飾ってある磁気などを除いて、そのネーミングに疑問を感じるくらい西洋的な作りである。「どこの宮殿も同じ。」と私がつぶやいたのを聞いたら、ハプスブルグ家の亡霊は、落胆するかもしれない。

ただ、マリア・テレジアも夫のフランツ一世もごく普通の家庭生活を大事にした人達だったらしく、どの部屋も比較的簡素で、威圧感が少ない。すぐ近くのノイシュバンシュタイン城などと較べて、嘘臭さがなく、人間の生活できる尺度を逸脱していないように思えた。

ここを訪れたのは、一人でインスブルックに行ったときで、数人のグループで見学を始める前に、「ドイツ語、英語、他に何語が良いですか?」とガイドの人が尋ねた。すると一人の老人が「オランダ語」と言った。「それは出来ない。」とみんなで笑って、和やかに見学が始まったのが強く印象に残っている。

□ ホーフ教会

「王宮」に隣接。Hofは宮殿の意。この地を愛したマクシミリアン一世のために1563年完成。祭壇までの通路空間の両側に23体のハプスブルグ家のご先祖の銅像が並んでいる。等身より少し大きい目で、歩くすぐ間近にあるのでちょっと気味が悪い。しかし芸術品としては超一流の物ばかりだそうだ。
チロルのスター、アンドレアス・ホーファーの墓もある。

 

□ チロル民族博物館

1888年に始まるが、今のような形になったのは1929年から。もともとこの建物は、1553年に建築された「ホーフ教会」の修道院で、ルネッサンス様式である。チロルのたくさんの民族資料が展示されているが、中でも昔の部屋が一部屋そのまま移築されているのはスゴイ。小さなドアを開けてその中に入ると、部屋中、見事な木彫り細工で覆われている。天井も低く、茶色の塊が迫ってきて、その重圧感に私は耐えられなかった。冬の厳しい寒さと、厳しい食環境が生み出した物なのかもしれない。

□ チロル州立博物館

1823年設立。当時の皇太子フェルディナント一世にちなんで、フェルディナディウムとも呼ばれている。チロルの作家、ブルグント地方、レンブラント等、オランダの画家の作品が多い。マクシミリアン一世の遷都により、当時最先端の文化と山間の民族文化が融合した結果、チロル独特の文化が生まれた。その数々を見ることが出来る。2階には、「黄金の小屋根」の腰部分のレリーフのオリジナルがある。

□ Alpen Zoo

一旦抱かれて、逃げ出した高山のリス
「アルペン動物園」へは、河畔からイン川を渡ってフンガーブルグまで登るケーブルカーの途中駅で降りると行ける。高山特有の動植物が見られる。日本ではなかなか見ることが出来ないエーデルワイスが、さりげなく園内の道ばたに咲いていた。

左は、私だけ特別にケージに入って、高山のリスを抱かせてもらった時の記念写真。
 
 
 
チロル州観光局:www.tirol-info.jp
 

 

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